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フィリピン武術 フジ・アーニス・クラブ

アーニスの歴史History

植民地化以前

フィリピン南部のミンダナオ島やスールー諸島は古くから奴隷貿易が盛んな地域でした。人口が希薄で穀物の備蓄に乏しいこの地域の人々は、近隣地域から略奪してきた人間を農業や海産物の生産のための労働力に使ったり、米などと交換することで生活を維持して来ました。

特にスールー諸島のホロ島の近くにあるパランギンギ島(実際はサンゴ礁)は奴隷貿易の中心地で、さらってきた奴隷はここで米や布などど交換されました。これらの活動はスールーのスルタンの公認のもとに行われており、スルタンがスポンサーとなり船団を編成し、スルタンの重臣が船に乗り込むこともありました。

遠征隊は、小規模なもので10隻以下、大規模なものでは4、50隻になったといわれており、海賊の活動は季節風に影響されない3月と10月に行われました。根拠地から北上した船団はパラワン島やカラミアン諸島を襲撃し、その後ルソン島やビサヤ諸島の集落を略奪して、フィリピン諸島を時計回りに回って根拠地に戻りましたが、一番被害が大きかったのは地理的に近いビサヤ諸島でした。

スペイン統治時代

16世紀末、スペインがイスラム教徒の討伐を目的に、ミンダナオ島西部のイスラム教国、マギンダナオ王国に攻撃を加えてモロ戦争が始まると、マギンダナオ王国のクダラート王はテルナテ島やスールー諸島、 ボルネオ島北部の イスラム民族と連合してスペイン軍を迎え撃つとともに、スペイン軍の兵士の供給地であるビサヤ諸島を襲撃するようになり、モロ(イスラム教徒)による奴隷狩りは激化していきました。

海賊がビサヤ諸島の沿岸部を襲撃するようになると、スペインは海賊の取締りのために巡回警備艇を出して警戒にあたるとともに、海賊の被害を受けた地域の住民を動員して、ビサヤ諸島の各地に石積みの防護壁や、ボルウォルテと呼ばれる監視塔(バンタヤン・サ・ハリとも呼ばれる)などを建設し、海賊の襲来に備えました。

1635年にマニラ総督に就任したセバスチャン・ウルタド・デ・コルケラはスールー・ミンダナオ地域のモロに大攻勢をしかけ、1635年にザンボアンガに要塞を築くことに成功し、そこを拠点にマギンダナオやスールー諸島に遠征し、1644年までの在任中にモロ討伐に大きな功績を挙げました。

ドセ・パレスのトーナメント
スペイン式剣術 エスグリマ

しかしコルケラ以後の総督は、北方から来る中国の海賊に備えるためマニラやルソン島中部の軍事力を強化する方針に転換し、1645年にマギンダナオ王国と、1646年にはスールー王国と和平条約を結んだため、ザンボアンガの要塞やビサヤ諸島の防護壁などは放棄されてしまいました。

1655年にマギンダナオ王国とスペインの和平交渉が決裂し、モロの海賊が再びビサヤ諸島の沿岸部を攻撃するようになると、この地域を教区に持つイエズス会は現地人を集めて郷土防衛のための民兵団を組織し、退役したスペインの軍人(イエズス会修道士)を教官にして現地人に短期間の軍事訓練を施しました。この訓練はモロの海賊活動が沈静化する19世紀半ばまで続き、このとき現地人に教えられたスペイン式剣術、エスグリマが現在のアーニスの原型となりました。

フィリピン武術の名称であるエスクリマ(eskrima)は、このとき教えられたスペイン式剣術、エスグリマ(esgrima)が訛ったものであり、もうひとつの名称であるアーニス(arnis)はスペイン語で武器を意味するアルマス(armas)が訛ったものだといわれています。

アメリカ統治時代

20世紀に入りアメリカがフィリピンを統治するようになると自由主義的な雰囲気が広がり、アーニス発祥の地であるビサヤ地方の中心地・セブではアーニスが盛んに練習されるようになりました。

当時のセブにはアーニスで有名な一族が数多く存在し、家伝のアーニスを身内や近所といった狭い範囲の者のみに伝えていましたが、1932年にそのうちのサアベドラ家とカニエテ家が中心となり、さまざまなスタイルのマスターたちが集まり、それぞれの技術を分かち合いアーニスを振興させるための団体、ドセ・パレスが結成されました。

ドセ・パレス本部
セブのドセ・パレス本部

この時代にアーニスの技術は、モロの海賊と闘うための剣を使う技術から、より身近な武器であるスティックを使う技術へと変わっていきました。その結果、相手に近づいた間合いで闘う技術(コルト)が普及し、その間合いで役に立つ柔術(コンバット・ジュードー)などの逆技の技術が取り入れられ、相手の武器を奪い取る技術(ディスアーム)が発達しました。

またそれまではエスパダ・イ・ダガが中心だったアーニスの練習がシングル・スティックが中心の練習に変わっていったり、攻撃を12種類に分類する効率的な練習法(ナンバリング・システム)が確立するなど、現在見られるアーニスがこの時期にドセ・パレスで形作られました。

そしてドセ・パレスではドーリン・サアベドラの指導のもと、後にバリンタワク・エスクリマを創始するアンション・バコンやバリンタワク・グループと死闘を繰り広げるカコイ・カニエテ、古典的なアーニスの保存に努めるフェリモン・カニエテなどの多くのエスクリマドール(アーニスの使い手)が育っていきました。

太平洋戦争後

太平洋戦争中にドーリン・サアベドラが亡くなりドセ・パレスからサアベドラ家の勢力がなくなると、ドーリン・サアベドラの弟子でドセ・パレスのトップ・ファイターであったアンション・バコンは、1952年にドセ・パレスを脱退し、その翌年にバリンタワク・セルフディフェンス・クラブを結成して、カニエテ家が中心となったドセ・パレスと対立するようになりました。

特に、ドセ・パレスのトップ・ファイターとなったカコイ・カニエテが率いるチーム(SEMUSA)との対立は激しく、セブでは両グループのメンバーによるババド(デスマッチ)が何度も行われ、メンバー同士が町で会えばその場で乱闘が繰り広げられるまでになりました。

ドセ・パレスのトーナメント
アーニスのトーナメント

しかし1975年にドセ・パレスのディオニシオ・カニエテが、両グループの対立の解消とアーニスのスポーツ化を目的に、自らが総裁、バリンタワク・グループのホセ・ビリャシンが副総裁を務めるセブ・エスクリマ・アカデミーを結成し、1979年にナショナル・アーニス・トーナメントを開催すると、両グループの闘いはバハドからスポーツへと変わっていき、対立はしだいに沈静化していきました。

セブ・エスクリマ・アカデミーの結成と同じ年にマニラでは国の支援を受けたアーニスの振興団体、ナラフィルが結成され、1979年にナラフィルが主催するナショナル・インビテイショナル・アーニス・トーナメントがマニラで開催されました。

ナラフィル主催のトーナメントはその後も定期的に開催されましたが、マルコス政権の支援を受けたこの団体は、マルコス政権が崩壊した1986年のバコロドでのトーナメントを最後に活動を停止し、同じ年にアーニスの保存と振興を目的とするアーニス・フィリピンが結成されました。

アーニス・フィリピンの尽力によりアーニスは1991年に開催されたSEA GAMES(東南アジア競技大会)の公開種目となり、2009年にはアーニスを国技とするための法案(アーニス法案)がグロリア・アロヨ大統領によって署名され、アーニスはついにフィリピンの国技となりました。現在ではアーニスは学校の授業にも取り入れられ、多くのフィリピン人に学ばれています。